Nikkor-H.C 5cm F2.0が欲しくて某オークションにて入札したら落ちてしまった...否、予算オーバーで落としてしまったニッカIII-SとNikkor-H.C 5cm F2.0
レンズが思いの外状態が良かったもので本体はおまけみたいなもの...なのかな。
Nikkor-H.C 5cm F2.0は初めて光線追跡ソフトに入れたことで思い入れ深いレンズです。
最初期Nikkor-H.C 5cm F2.0付きニコンI型?買えるかっ笑
レンズ目当ての方はボディなんて目もくれそうにないですが、私の場合はボディの方、というより整備の方が楽しいのでやっていきましょ。
まぁ、約70年前のカメラということもあってゴム面が溶け出し癒着してるのは言うまでもありませんね。
そういや、ニッカ5型のプレス・リリースでは耐寒耐熱の独自開発シャッターが採用されたとの旨の記述を見かけましたが私のニッカ5型は当時物と思われる両面絹幕が正常に作動しています。いただきものなので整備に出されたのかもしれませんが。
マウントを外すとワッシャの量がえげつない
こんなんでフランジバック合っているのかしら、組み立てた後に測定してみます。
キヤノンも同様に板金タイプのライカを基本にしておりますが、遮光板はついていませんね。幕交換するのに手間が増えるので本家ライカも含めあんま好きじゃない...
幕交換ついででなければスプリングドラムとシャッタードラムの油交換はできないのでサクッと分解
ちなみに瞬間接着剤はシャッター幕制作でリボン縫い付けのときに使いました
シャッタードラム。ここの掃除と油交換でだいぶ変わる気がします。
ここと底部アイドルギアを手を抜いた私のキヤノンIII、鳴きが10回に1回ほどたまに出る上に1/1000が不安定になるというね...早くやり直せよ自分
70年間お疲れさまでした。
採寸して切り出し。
両面絹幕が素人にはどうしても手に入らないのでライカ同様ゴム張り片面絹幕です。
シャッター幕制作後、接着剤硬化待ちの時間でスローガバナに手をつけます。
思いきし真鍮製ですね。メッキくらいしてよ...
アンクルは鉄製のようですが、あんまりだなあ...
ワンウェイクラッチタイプの一般的なもの。
ワンウェイクラッチタイプはコマの清掃をしないとダメなようで…これまた以前手を抜いて痛い目に合いました。
各部品を超音波洗浄後組み立て注油
シャッター幕が出来上がる前に本体側の組み立て。
ちなみにこの後巻き上げ側のグリスアップもしました。
出来上がったシャッター幕を組み込み(これがいちばん大変なんですが)
此処から先はぽんぽん組み付けていくのみ。
いや、シャッターテンション調整も間にあります。
感触優先してあんま目盛り値には近づけませんでした。あえて、いや下手なだけ。
基本的にライカIIIのコピーのようですが、追加で先幕掛かり留めレバーの周辺にシンクロ装置が追加されています。シンクロ装置はここだけで完結されています。すごい。
ライカと同じ貼り付け方してます。
そして組み上げてはじめの写真に戻るという
あれだけわけわからんほどのワッシャが挟まってたマウント面は、ワッシャ含めもとに戻すとフランジバック実測28.79mm。ほんとにいいんだな、これで?
バルナックタイプの場合、裏蓋が開かないのでガラス定盤にマウント部を押し付ける測定法ができないため測定の精度が出てるとも言えないんですよね…非常に気がかり。
熊谷氏になりそう pic.twitter.com/WPP4Kr6Kkv
— にこら (@nikora060) 2021年3月9日
これはライカ!!!(うそニッカ
ニッポンカメラ創設者の熊谷氏がニッカをシュミット商会に持ち込んだところライツの特許を使える会社の創設を打診された話、もし輸入制限のあったライカをライセンス生産していたら…と考えると興味深い
— にこら (@nikora060) 2021年2月19日
そうそう、こんな逸話もありまして。
概要はツイートで完結しているんですけど、今回のニッカの出来をみると本当に完成度が高くライカに遜色ない使用感どころか感触の面まで配慮されており意外とやるなーといった感想を持ちました。
カメラレビュー誌2号(昭和53年 朝日ソノラマ社)にニッポンカメラ創成期とその周辺について特集記事が載っていましたがニッポンカメラが誕生するまでの経緯は実に面白いですね。
ニッポンカメラ創設者の熊谷源二氏はキヤノン黎明期の3人(内田氏、前田氏、熊谷氏)として有名ですが、年々精機光学の生産の重点が軍用兵器に移るに従い好きなカメラ弄りができなくなり不満を持ち精機光学を辞め高級カメラの修理業を始めたそうな。
そこに折からの戦況悪化で軍人、報道班員の使うライカが入手困難になったためにパテント無視でコピーライカを作れという命令でDIIIそっくりのコピーライカを製作、供給。
そして終戦、敗戦国であるドイツのパテントが無効となりライツの特許が自由に使えるようになった。パテント無視のコピーライカ、ニッポンカメラの面目躍如、契約がまとまりアメリカへの輸出スタートと。その際に名称が「ニッポン」では色々とまずかったために縮めて「ニッカ」に名称変更。
キヤノンも1940年に板橋の双眼鏡メーカーであった大和光学を国策で合併させられ、戦後日本光学との関係悪化(それこそ冒頭のNikkor-H.C 5cm f/2.0が関係しているわけですが)後、戦時中軍需品生産、X線撮影レンズの製作と写真用レンズ試作の甲斐もあり自社ですぐセレナーレンズを供給できるようになったわけでどれもこれも戦争という名の怪我の功名というやつですなあ、と思うわけです。
そういえば、ニッカにニッコールが供給されるようになったきっかけとはなんでしょうね。熊谷氏が旧精機光学出身とのことから日本光学との繋がりがあったのか、とも考えられますがニッポンカメラは五条光機製クセベックがついてますからね。なぜ、戦後になって日本光学から供給を受けられたのか不思議でなりません。
もし、日本光学がニッカカメラにニッコールを供給しなかったら。
それこそダグラス・D・ダンカン氏のニッコールP.C 8.5cm f/2.0との出会いはなく、ニッコール、並びにニコンの世界進出はそう上手くいかなかったとも考えられるんですよね。
ちなみにダグラス・D・ダンカン氏は日本光学への工場見学への予定変更前、当初キヤノンカメラの工場に見学へ行く予定だったそうですからセレナー85mm f/1.9に目をつけセレナー135mm f/4.0とセレナー50mm f/1.9がLIFE誌を飾ったかもしれないのです...まあ歴史にIfは禁物ですね。
やはり嘘か誠かの余談の方が長くなりました。
ちなみに密かに?世界の中古カメラ市にてかのダンカン氏のニッコールP.C 8.5cm f/2.0は入手しているのでそのうち試写も出していきますわ。ついでにニッコール13.5cm f/4.0と5cm f/1.5がほしい...